21世紀への妄想
未だに得点力不足に悩む日本代表の監督フィリップ・トゥルシエは果たして、かつて左足一本で試合をコントロールしてしまい「レフティー・モンスター」と呼ばれるようになった選手が日本にいることを知っているだろうか。

小倉隆史は、四日市中央工業に在学していたころからその頭角をあらわし、高校卒業後はJリーグの名古屋グランパスに入団、初年度からその類稀なる素質を披露した。
「脳裏に焼きついて離れないプレー」というのは、思わずあっと声をあげてしまうような意外性に富んでいる場合が多い。
小倉が敵陣深くの「ポケット」の位置で、柔らかいフェイントを軽くかけ、いとも簡単に相手DFを置き去りにしたシーンは「こんな最も警戒される位置でこんなに易々とDFを抜き去ることが出来るのか!」と驚かされたし、1992年のナビスコ杯での「どうやったらこんな角度のない所からゴールできるのだろうか」と目を疑いたくなるようなボレーシュートは未だにリアルな映像として記憶に残っている。
そして、もうひとつ忘れたくても忘れられないシーンがある。
それは1996年2月、U−23日本代表がアトランタ五輪のアジア地区予選に望むため、マレーシアで合宿を張っている際に起こった。当時の五輪代表監督の西野朗はその日、直前まで降っていた雨のせいでぬかるんだグラウンドを見て「何か嫌な予感がした」そうだ。
練習中、小倉がヘディングを競り合った際の着地に失敗してしまったのだ。
ぬかるんだグラウンドに足を取られ、膝の関節が逆に曲がっている映像。結果、右膝後十字靭帯の全断。
アトランタ五輪にかける小倉の意気込みは並々ならぬものだったらしい。
小倉は名古屋グランパス入団二年目に、留学という形でオランダリーグ2部のエクセルシオールに移籍していた。そして、当初半年で名古屋に呼び戻す契約であったがエクセルシオール側が小倉を必要とし、契約をあと半年延ばすほどの活躍を見せていた。小倉はシーズンを通して実に15ゴールをたたき出したのだ。
この後、オランダの一部リーグの強豪チームからオファーを受けている。
しかし、オランダリーグのシーズンが調度アトランタ五輪と時期を同じくしたためこのオファーを一旦断り、オリンピックでの活躍を引っさげて再度オランダでプロとしてやっていこうと考えていたのである。
その後、膝にメスを入れたという事実が大きなハンデとなって、その素質を再び見せる機会をことごとく逃してきた。

そして長い、本当に長い期間を経て、小倉がピッチに戻って来た。復帰初戦で早くもゴールを決めるなどその素質の片鱗を見せているので、マスコミも見方を変えるかもしれないが、小倉のジェフ市原移籍のニュースは、実に簡素で、また大衆受けしそうな形で報道された。
「小倉・市原移籍。四中工トリオ復活。」
全く日本のマスコミは、帰国したばりのこの男が、不審に喘ぐ日本代表を変え得る素質を持っていることなど、頭の片隅にもないようだ。
俺自信、小倉がピッチに立つという情報を聞きつけ、壮大な妄想を抑えられないのだが。

現在の日本代表にはFWとして本命視できる選手がいない。
リーガ・エスパニョーラで本場のサッカーに触れ、大きな経験と自信をつけている城章二にしても、未だボールを持ったときのシュートに至るまでのもたつきは改善されていない。
そもそも、トゥルシエが選ぶFWはクロスボールやスルーパスを点で合わせるシュートは打てるが、ドリブルでボールを持ち込んでシュートに繋げるといった、一人で崩す動きが出来る選手がいない。
中田、名波、中村、小野と言った中盤の選手のパスワークに頼った攻撃しかできないのが今の日本代表だ。
しかしFWに小倉を置くことによって、前線でのボールキープ、一人でボールを持ったときの突破、DFライン背後への抜け出し、そして得点力という、現在の日本代表が抱える問題を全てクリアできる。
しかも、FWの仕事を全て任せられるので、小倉のワントップでいい。
よってMFを一人増やすことができ、持て余すことの多い中盤の才能を存分に生かすこともできる。

これらのことは、小倉隆史というモンスターがその素質を再び開花させるという不確定な希望が達成されて成り立つものだが、あの「脳裏に焼きついて離れない」小倉の姿を思い出すと、やはり妄想を抑えることができない。

21世紀、小倉はレンタル期間を満了し、名古屋グランパスに戻るだろう。
そして引退したドラガン・ストイコビッチの抜けた穴を埋めてなお余りある活躍を見せるはずだ。
J1に復帰した浦和レッズのホームスタジアムに小倉率いる名古屋グランパスを迎えたとき、「お帰り!オグ」という歓迎の気持ちを込めて、大きなブーイングをする日を今から心待ちにしている。

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