.         

ある朝の情景                    朝の影

            
               
            
 妙なところで健全なあのドラまた娘が選んできたわりには、そこは程良い頽廃が漂った宿だった。
 饐えた空気は俺の肌に馴染む。女二人が部屋に戻り、夜半になって互いに無言で呑み続けていたガウリイが引き上げていっても、俺はひとり酒を呷り続けた。
 無性に酒に溺れたくなる夜がある。
 きっかけはよくおぼえていない。
 いや・・・そんなのは言い訳だ。
 確かに俺はあいつのことを考えていた。
 精製の悪い酒に意識を進んで混濁させながら、どこかでそんな自分をおそろしく醒めた目で眺めているもう1人の自分がいる。朦朧と霞む幻界の果てに揺れる小さな陽炎。
    
 笑顔で、
 手を振って、
 俺の名を呼んで−−−−

 意識の闇の彼方から響いてくる無数のざわめき・・・絶叫、嗚咽、罵声、苦鳴、爆音、咆哮、・・・悪夢。
 それらを静かに包み込むように、あいつの声だけが驚くほど鮮明に頭の奥にこだまし、俺は瞼を閉じてその余韻に身をゆだねる。
 
 それでも、
 「王女」−−−−だ。
 
 少しなれ合い過ぎたな。
 明日にはリナたちはこの街を発つ。あいつも何のためらいもなくついていくだろう。
 俺はここに残る。そうすれば、誰に縛られることもなく、またひとりで、
    
「おはようございます」
   
 この身体を、元に
 戻 す  た
 
「ゼルガディスさん」
  
 め    に
    
 あいつが立っていた。
 笑顔で俺を見つめて。  

 
     
 軽い靴音がそれが幻ではないことを伝えている。
「−−−もうそんな時間か」
 狼狽する心に反比例して、俺はどうでもいいことを口にする。
 あいつは不思議そうな声をあげ、無警戒に近寄ってきた。
「ゼルガディスさん、もしかして夜からずっとここにいたんですか?」
 驚き半分、呆れ半分と言ったところだろうか。俺の言葉に何の疑問も抱かなかったらしい。朝まで飲んだのは久しぶりだ。確かに正直な気持でもあったのだが。
「まだ夜明け前ですよ。もうそろそろ明るくなると思いますけど」
 軽く爪先立ちしてのんきに少し離れた窓の向うを見やる気配。
「何処に行くんだ」
 心の中まで見透かされたような気がした。
「出かけるんだろう」
 夜明け前にしてはあまりに身繕いが整い過ぎているのだ。これで聖職者の身分にあるこの娘、ときたま「知るはずのないことまで知っている」みごとな神憑かりぶりを発揮することがある。見透かされたはずがない、知られたところで構わないではないか、と思う一方、そんなことを考えている自分そのものがひどく奇妙でもあった。
 俺は、この娘に、これほどまでに・・・・うろたえている。
 ただ成りゆきでともに旅をしている、それだけだ。たとえその旅がこの世界における歴史的な大事件にまつわるものであったとしても、所詮俺にとっては何の意味も持たない。
 戦い続けてきた。これからも戦い続けていく。それだけの話だ。城で生まれ城で育ち、これからもその高く厚い囲いの中で生きていくこの娘には関係のないことである。
 何よりこの天然の無神経さでは理解すらできないだろう。俺の生き方を、時に狂気と正気の狭間を行き交うこの途方もない絶望を。
「−−−何をされてたんですか?」
 何、か。
「何、か」
 そのまま口に出た。
「何を−−−してたんだろうな」
 ”お前のことを考えていた”
 とでも言ってやったら、どんな顔をするんだろうな。
「・・・・ゼルガディスさん、もしかして・・・・酔っちゃってます?」
 おずおずと訊ねてきたので、
「酔ってる」
 つとめて素っ気無く答える。でなければそれこそ狂気の沙汰だ。こんなとりとめのないことをぼんやり考えて、貴重な時間を無駄に費やすなど。
 すぐ傍で椅子を引きずる音がした。
 カウンター席はこいつにはかなり高い。ほとんどよじ登るようにして座ると、
「すみません。お茶を下さい」
 厨房に向かってそう叫んだ後で俺の顔を見上げ、そのくせ目が合ったとたんに俯いてしまう。
 どうして−−−目を逸らせる。
「やっぱり・・・ゼ、ゼルガディスさんと一緒にいて、いいですか?・・・」
 なぜ−−−
 そんな顔をする?
 朱を散らせた白い頬、細い項、伏せた長いまつげをかすかに震わせて。
 この怒りを、憎しみを、衝動を・・・止められなくなる。
 俺に近寄るな。
 だが、口をついたのは、
「好きにしろ」
 そんな言葉だった。
 安堵のため息とともに漂うかすかな女の香り。
 グラスの氷が驚くほど音を響かせて砕け散った。
 

   
 この娘が俺に対してある種の幻想めいたものを抱いていることは知っていた。幻想と言っていいだろう。でなければ未知領域への好奇心と言いかえてもいいかもしれない。こいつが憬れて止まない親父さんだのヒーローだのとこの俺との間に、いかなる共通点があるのかはよくわからないが。
 わざと聞いてみたくなった。
「お前、好きな男はいるか」
「え゛っ」
 案の定あいつは濁点声をあげ、ティーカップを取り落とすという定番の反応を見せた。
「わ」
 慌ててカップを取り直すと、
「え゛・・・ええ〜〜〜〜っとうぅ・・・」 
 上目遣いに俺の顔を見る。
「・・・・・・・・・い、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・居・・・・・・ます・・・」 
 居ます、
 か。
 愛するということ。
 それは奪い、奪われることだ。
 それが全てだと信じていた。
 こいつに出会うまでは。
 だからこそ、時折こいつの汚れのない眼差しが堪えきれぬほどに腹立たしい。
 例えば今、俺がいきなり襲いかかったら、こいつはどうするのだろう。
 そう、もし俺が、
 俺がお前を本気で求めているのだとしたら、
 お前を俺だけの物にしたいと心の奥底から願っているのだとしたら、
   
 俺は
     
「そいつを−−−−殺したいとは思わないか?」
    
        
     
         

次のページへ

トップへ
小説トップへ