ある朝の情景                          朝の影

            
               
            
 いつもよりずいぶん早めに目が覚めたらしい。
 カーテンの裾を摘まみ上げて見た景色は、まだ青みがかった闇の中に沈んでいた。
 隣のリナは大口を開けて快眠を貪っている。
 アメリアはしばらく窓の外を眺めていたが、音を立てぬよう服を着替えると、軋む扉を開けてそっと部屋を出た。
       
 食堂から灯りがこぼれている。
 この辺りではたいていそうだが、宿屋は飯屋も兼ねているから、宿泊客の食事の準備に追われていたりするとこんな時間から灯りがついているのも珍しいことではない。
 が、先客がいた。
「おはようございます。ゼルガディスさん」
 廊下からいちばん離れたカウンター席に白いマント姿が座っている。その顔が、ひどくゆっくりとこちらを向いた。
「−−−もうそんな時間か」
「え?」
 アメリアは静かな部屋に軽い靴音を響かせてゼルガディスに近寄った。
「ゼルガディスさん、もしかして夜からずっとここにいたんですか?」
 ゼルガディスは足を組み、片肘をカウンターについた姿勢で、透明な液体が底から1㎝ほど入ったグラスを握っていた。酒のボトルが数本・・・そのうち半分ほどは横倒しになって・・・彼の目前に並んでいる。
「まだ夜明け前ですよ。もうそろそろ明るくなると思いますけど」
「何処に行くんだ」
「?」
「出かけるんだろう」
 グラスを傾けつつ、ゼルガディスが横目でアメリアの頭から足先までを軽く一なめした。早朝だというのに、着替えを終えたアメリアはすっかりいつもの旅装姿である。
 アメリアは笑って、
「出かけるっていうか、散歩に行こうと思ってたんです。いつもより早く起きちゃったみたいだから」
 ゼルガディスは何も言わない。
「ついでに軽〜く体操してランニングしてー、それから日の出を見て帰って来ようかなあって。リナさんはしばらく起きそうにありませんし、身体を動かせば朝ごはんもうんとおいしくなりますしね!」
 例の口調で何やらガッツポーズのような身ぶり手ぶりまで交えて語ってから、アメリアは口を閉じた。ゼルガディスはどこか鋭く投げやりな視線を遠くに飛ばしたまま、グラスの底を宙で小さく転がしている。
「ゼルガディスさんは何をされてたんですか?」
「何、か」
 ゼルガディスの手がボトルにのびる。
「何を−−−してたんだろうな」
「・・・・ゼルガディスさん、もしかして・・・・酔っちゃってます?」
「酔ってる」
 そのわりには普段と変わらぬ落ち着いた声で、即、答えが返ってきた。
 アメリアはグラスを呷るゼルガディスの横顔を見つめ、それからさらに一歩近づくと、横の席に腰掛けてお茶を注文した。
 ゼルガディスが再び横目でアメリアを捉える。
「ええと」
 アメリアは少し頬を火照らせ、膝で両手を握りしめて俯いて、
「やっぱり・・・ゼ、ゼルガディスさんと一緒にいて、いいですか?・・・」
 ゼルガディスはグラスの中身を乱暴に口に流し込んだ。アメリアが顔をあげた視線の先で、
「好きにしろ」
 グラスの氷がやけに音を響かせて砕け散った。

   

   
 食堂には厨房の調理の音とゼルガディスがグラスを転がす涼やかな音だけが聞こえている。
「アメリア」
 ゼルガディスが彼女の方を向くことなく唐突にそう呼んだ。
「はい」
「お前、好きな男はいるか」
「え゛っ」
 アメリアは握っていたティーカップを取り落とした。
「わ」
 慌ててカップを取り直す。その顔がみるみる赤く染まっていく。
「え゛・・・ええ〜〜〜〜っとうぅ・・・」
 アメリアは一瞬ちらりと上目遣いにゼルガディスを見、手元に視線を戻して、
「・・・・・・・・・い、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・居・・・・・・ます・・・」 
 語尾は隣の席でも聞き取れるか聞き取れないかと言うほどの小声になりつつ、ようやく答えた。
 ゼルガディスは何も言わない。
 アメリアはティーカップからのぼる湯気を目で追いながら、
「ゼル・・・ガディスさんは?いますか?そ、その・・・好きな・・・とゆーか・・・た、大切な−−−−」
「そいつを−−−−殺したいとは思わないか?」
「えええぇっ」
 ゼルガディスははじめて目を伏せ、大きく頭を振った。
「・・・何でもない。気にするな」
「ゼルガディスさん・・・?」
「親爺」
 マントを肩から大きくはためかせ、ゼルガディスが立ち上がる。厨房から主が出てきて勘定を告げると、ゼルガディスは懐からそれより数枚多い金貨を取り出してカウンターに置き、そのままアメリアに背を向けた。アメリアも慌てて立ち上がる。
「部屋にいる。朝食は要らんと伝えておいてくれ」
 ゼルガディスが肩ごしにわずかに顔を向けた。
「じゃあな」
「・・・あ。はい」
 朱色に染まった窓から陽の光が差し込んで来ていた。宿の寝間着を着た人間がちらほらと、長い影を延ばして階段や廊下を行き交い始めている。フードを目深にかぶった白い後ろ姿が食堂から出ていくのを、アメリアは手を胸に当てて見送った。だが他人より幾分重めのゼルガディスの足音が完全に聞こえなくなった頃になって、突然はじかれたように、
「すみませんっわたしもお勘定をお願いしますっっ」
「いただきましたよ」
 アメリアは不思議そうに瞬きをし、それから一呼吸置いて、
「ごちそうさまでした!」
 笑顔であいかわらずどこかあどけないおじぎをして、廊下に走り出た。

   
    
 ゼルガディスの部屋の扉が閉まろうとしている。
「ゼルガディスさん!」
 扉が止まった。
 アメリアは足音を抑え気味に、それでも軽く息を乱して扉に駆け寄った。
 白いフード姿が隙間の上方からアメリアを見降ろしている。
「ありがとうございました!」
 ゼルガディスの目が細まった。
「そんなことをわざわざ言いに来たのか?」
 アメリアはおかっぱの黒髪を大きく横に振った。
「さっきのお話なんですけど」
「話?」
「わたしは・・・その、やっぱり、ずっと一緒にいたい、です。・・・好きな・・・人、と・・・」
「・・・」
「大好きだから−−−−ほんとはいろんなお話、聞かせてほしいです。楽しいことや面白いこともだけど、苦しいことも、厭なことも、つらいことも、何もかも全部。自分の中だけにおさめたままにせずに・・・」
「・・・」
「わたしでは何の力にもなれないかもしれませんけど・・・リナさんみたいに物知りじゃないし、ガウリイさんみたいに強くだってないし」
「・・・」
「でも、わたしはずっとずっと一緒にいたいです。ずっと一緒にいて、一緒に生きていたいです。だからゼルガディスさん−−−−」
 アメリアは扉の隙間に滑り込むと、ゼルガディスの胸に頬を寄せ、
「そんなにかなしそうな顔、しないで下さい。ゼルガディスさんは独りじゃありません。そばにいますから。どんな時でも、わたしはここにいますから」
 ごく自然に白いマントごとゼルガディスを抱きしめた。
「−−−−いいですよ。泣いても」
「お前な」
 ゼルガディスは呆れ顔で、アメリアの頬を伝っていく透明な滴を眺めている。
「そういうことは泣いてる人間が言うもんじゃないだろう」
「・・・そうですね。えへ」
「えへ、じゃないだろうが。・・・ったく−−−−」
 陽の光がゼルガディスの部屋の窓からも差し込んでくる。
 二人の全身を、朝日がゆっくりと照らし出していく。
 ゼルガディスの斜め前の扉が開いた。
 ほぼ同時にゼルガディスの隣の扉も開く。
「おっはよー」
「よう」
 リナとガウリイだ。二人は寝ぼけ眼をこすりつつゼルガディスとアメリアを交互に見、おもむろにリナが鼻から盛大にため息をついた。
  
「あ〜あ。もうっ。朝っぱらから何女の子泣かしてんのよ、ゼル!」

      
 
         

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