香り

           

    

 深夜、宿の軒先に俺が立ったのを見つけたのは部屋の窓から顔を出していたリナのみだったが、
「こんな時間にどこ行くのよ?」
「お前こそどうした」
「ちょっとね。あんたは?」
「酒場に行ってくる」
 背中にちらと視線を感じる。相変わらず賢い女だ。嘘だと気づいてもそれ以上聞いてこない。
 大通りを外れ住宅地に入っていく。見覚えのある店の角を曲がり、見覚えのある街路灯の下を進む。
 何もかも記憶のままだった。そしてかつてそうすることが自然だった日々のまま、周りに人影が居ないことを無意識に確かめている自分に気づき、独り小さく苦笑する。昔と呼ぶにはまだ早すぎる、しかしまぎれもなく過ぎ去ったはずの時間が現実とゆっくり重なっていく、そんな奇妙な感覚を俺は感じていた。
 高級アパート街。その中のごくありふれた建物、その三階の角部屋。
 彼女はまだそこにいた。
 
 
 
 裏世界の情報屋と客として彼女と俺は出会った。
 高級アパートにメイドを連れて独り住まいをしている女資産家というのが表向きの顔。この街、ひいてはこの街を首都とするこの国の実力者達の愛人というのが彼女のもつもう一つの顔であり、彼らを通してこの国の内部情報を流す情報屋としてのさらなる顔を彼女は持っていた。
 俺がこの街を訪れることは滅多になかったが、訪れれば彼女の部屋に泊まることもあったし、それを傍から見て恋人のようだと言われればあるいはそうだったのかもしれない。
 しかしそれはあくまで情報報酬の一環であり、裏世界において見知らぬ相手と信頼関係を樹立していく際に用いられる手段の一つに過ぎず、それこそごく純粋に体だけの関係だったとしか俺には言い様がない。おそらく彼女もそうだったろう。少なくともレゾが死に−−−滅び、といった方が正しいのかもしれないが−−−、裏世界とのかかわりをひととおり絶って以降思い出しもしなかった俺にとって、彼女が時の深海に沈むひとひらの記憶の花弁でしかなかったのは事実だった。
「来てくれたのね」
「来てほしかったんだろう」
 彼女は変わっていなかった。甘く掠れた声も、誘うような口元も、あの香りも。
「昨日、宿に来ていたな」
 思い出しもしなかった彼女を俺がこの夜訪れた理由。
 彼女が俺の前にあらわれたのだった。
  
   

**             **

  
   
 突き抜けるような青空だった。
 こんないい天気、窓から眺めているだけなんてもったいない。 
 という気持ちは判らないでもないが、だからといって強引に連れ出されても機嫌よくなどなれようはずがない。
「ですからっ!」
 と我が先導者は満面の笑顔で手を振り振りのたまうのである。
「木陰で読めばいいじゃないですか!部屋の中で読むよりずっと気持ちいいです!」
 あのな。
 俺が読みたいのはヒロイックサーガでも絵本でもない。古文書だ。辞書も要るし紙とペンだって使う。それを外に出てどうしろと?
 などという俺の言い分は当然のごとく聞こえていない様子である。フンフン鼻歌なんぞ口ずさみながら、
「お菓子と紅茶も用意してありますから、ね?みんなでのんびりしましょ。風も温かいし!絶好のお茶会日和〜〜♪」
 少しは人の話を聞け。
 俺はそんなものは要らんと言ってるだろう。お前らの暇つぶしに俺を巻き込むなとふだんあれほど−−−−
「ほら、そんなにしかめっ面してたらしわができちゃいますよっ。ゼルガディスさんこんなにかっこいいのに〜」
 −−−−わかってる。
 常識を超越した「素直な」言動。
 それだけのことなんだ。
 わかってはいるんだが。
「あれ?ゼルガディスさんなんでマスクなんかするんです?もしかして花粉症?」
 ・・・・。
 こうなったらさっさと茶会とやらを終わらせてさっさと部屋に戻ってやる。行くぞアメリア。
 自称美貌の天才魔道士が期間限定特別クーポンとやらを使ってとったこの宿には、ふだん泊りなれているクラスの宿にはない小綺麗な、それこそ王女殿下がお喜びになりそうな趣の中庭が敷地のそこここにしつらえてあった。
 案の定たらふく飲み食いしてそのまま睡魔の腕に落ちたガウリイと本を手にした俺の目前で、姫君は青天の下口ずさむ歌も軽やかに花摘みに興じておられる。その隣でやはり至福の笑顔で花摘みに夢中になっている娘も居るが、これはこの地方の固有種で魔法薬の原料になる薬草が自生している−−−−中庭である以上厳密には植えられているのだろうが−−−−のを見つけたからで、摘み取られた草花はそっくり彼女特製マントのポケットへと吸い込まれていた。売ればいい金になるのだ。
 たしかにいい天気だった。
 季節を迎え中庭を彩る花々が、風を受けて優しく陽射しにきらめいている。細波のように。
 濃さを増した緑からこぼれる光もまた読書を続けるにはあまりに明るくそして柔らかで、俺は読みかけの本を伏せると傍らの樹の幹に背を持たせかけた。
 怠惰な、非生産的すぎる時間。
 たまには、な。
「はい♪」
 目を開けると、すぐそこにアメリアの顔があった。
「ルルさんどうぞ♪」
 悪戯っぽく笑いながら持っていた白い花を俺の髪に差してみせる。
「ふふふ。ルルさんてばやっぱりよくお似合いです〜〜!」
「こら。誰がルルだ」
 見るとガウリイも寝くたれたままの姿で同じ憂き目にあっている。
「木陰に佇む美女二人!!おおお!!まるでヒロイックサーガの挿し絵ですね〜〜〜♪」
 髪に花を飾られたまぬけな男二人、だ。むしろ地獄絵図ではないかと思うが。
 屁理屈はアメリアの瞳の前に澄んで消えた。
 彼女の意思によって変幻自在に形を変える青い宝石。その中に、目を細めた俺が丸く映っている。
 ・・髪に花の差されたなんともいかんしがたき姿で。

 これでも、かつては狂戦士の二つ名で通っていた男だったんだがな。


「きれいです」
 アメリアが笑う。
「ゼルガディスさん、とってもきれいです」
 きれい。
 女からそう表されるのはアメリアが初めてというわけじゃない。
 なのに胸が高まる。
 俺にもまだそんな他愛無さが残っているらしい。
 アコガレの姫君を前に手も足も出せず連敗を喫している、それ以上の青臭さが。
  
      
「きれい、だけか?」
 気づけばそう口にしていた。
 微かに目を見開く姫君。
 問うようにほんの少し首をかしげて見せる。
 俺は髪から花をとり、腕を伸ばしてアメリアの豊かなそれに差した。
 滴る黒髪、ぬけるように白い膚。
 陽気のせいだろう、うっすらと朱をのぼらせている片頬に思わず手を触れる。
   
   
 傷一つなく柔らかな、無垢そのものの−−−−−
  
    
 と。
 何かが不意に香った。
 仄かに、しかし鮮やかに。
 
 感覚が急激に研ぎすまされていく。
 記憶が、意識が、状況が、俺を引き戻していく。
 この中庭には周囲を遠く巡るように小さな道が幾本も作られている。
 果たしてアメリアに気づかれぬよう茂み越しに見遥かした木立の向こう、馬車が停まっているのが見えた。
 一人乗りの小さなそれは実にみごとな黒塗りで、地味ではあるが大きさに不相応な手間と細工がかけられているのがみてとれる。扉にはこの宿屋の入り口にかけられているのと同じ紋章が描かれているが、見覚えのある宿屋所有の馬車とは形も作りも違う。濃い色のカーテンが降りていていて中の様子は窺えない。しかし乗り手が女であることは明らかだった。カーテンの隙間から目印のようにレースの扇子がのぞいている。特徴あるその扇子の持ち主を俺は知っていた。それは一瞬俺の鼻孔をくすぐった甘い香り、あの香りを常にまとわせていた人間でもあった。
 

 「彼女」、か。


 ならば俺が目的なのだろう。
 俺達がここに来たとき馬車は居なかった。俺の座っている場所は馬車の位置から死角になる。姿は見えては居まい。あるいは宿屋から情報が流れでもしたのか。
 不思議と何の感慨も湧かなかった。
 ただ、ここに俺はこれ以上いるべきではない。この三人と俺とは関係がないのだ。この身体を硬直させたまま頬を真っ赤に染めている少女も、また。
 フードを目深にかぶると立ち上がる。これではじめて馬車から俺が確認できただろう。
「ゼルガディスさん?」
「部屋に居る。お前さん達はゆっくりするといい」
 さり気なく促す。アメリアは素直にうなずいた。
「でも・・。黙って出かけたりしないで下さいね。夕食にはきちんと降りてきて下さいね」
 妙な不安を抱かせぬよう気を配ったつもりだったが、青い瞳が微かに揺らいでいる。
「ぜったいぜったい約束ですよ!」
 にゅ、と白い小指が突き出された。
「ゆびきりです!!はいっ!!!」
 やれやれ。
 あんまり勢い良く腕を振るものだから、髪から花が落ちてきた。
 背を向け際、拾って差し直してやる。
「良く似合うぞ」  
 返事はなかった。かわりにきゅう〜だかにゃあ〜だか妙な声を聞いた気がしないでもない。
 部屋に戻り、閉めた窓越しに中庭を窺う。
 馬車の姿はすでになかった。
 この国では最近要人の暗殺や反体制派の粛正が続いている。セイルーンも事態を重く見て外交面から様々なアプローチを行っているらしいが、アメリアの話では成果ははかばかしくない。遠からぬうちに内乱に突入するだろうというのが大方の予想だそうだ。そうなればこの街も、首都であるが故におそらく尋常でない戦禍に見舞われることだろう。かつて俺の生きていた世界がそうであったように。彼女の訪問の理由は明白だった。
 軽くまぶたを閉じる。
 闇の奥底から浮かび上がる記憶。
 過去の生き方を否定する気はさらさらない。俺は答えを持っている。
 だが今、その答えにするりと吹き込む風がある。
 あたたかで、やさしくて、つよくて、時にうっとうしくて、めんどうで−−−−
 黙っていれば吹き過ぎてゆくと思ったそれに、気づけば包み込まれていた。
 その風の行方を、俺は知らない。
 
 もう一度中庭を見下ろす。
 木陰からのぞく青い足と赤い足。並んで大の字になっているらしい。
 そして。
 それらの足から少し離れたところに、俺が最後に見た姿勢のまま倒れ込み、顔を真っ赤にして目を回している愛らしい姫君が約一名。

 
 ・・・やれやれ・・・。
 
    

         

                     
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