ハルノユキ


二月も半分ほどを過ぎて、少し前の寒さが弛み始める。
もう、雪は降らないだろうか。

職場から少し離れた公園の梅の木に、白い花が咲いていた。
思いもかけないその色に、つい、手を伸ばして枝を手折っていた。
誰かに、見せてあげたかった。

春が近づき始めた頃の雪は、大気中の汚いものを地に落とすのだと、昔々の恋人は言っていなかっただろうか。
それならば、自分の地に落ちるべきなのだと言って笑った。その時は何の花を手折ったのだったか。
思い出せないのか、それとも思い出したくないのか。
時々、記憶の中を真っ白で冷たい白い雪が埋めて。その度に自分は汚れたような気がする。

やはり、何も思い出せなかった。

それから、どれくらい歩いただろうか。いつの間にか握られていた梅の枝はなくなって、指に触れていたことさえ、忘れてしまっていた。
「ああ、梅をなくしてしまったね…。」
そう言って振り向いたけれど、虚空だけがただ青く広がっていた。
誰を連れて歩いていたのかさえも、忘れてしまった。

「時々、そうなんだ。記憶の一部分だけが何年も、何十年も昔に引き戻されるような感じを受ける。」
その言葉を聞いて、密は少し困ったような顔をした。
「ねぇ、密を、抱きしめてもいい?」
間近で覗き込んだ顔は、声もなく、ただ一度縦に振られた。
「抱きしめると、温かいのに。少したつと、もう忘れてしまう。」
「…それが、怖いのか?」
密の声が、耳に届いた。
そう、怖いのかもしれない。触れたいと思ったときに触れたいと思った人がいないという事実が。何年も、何十年も、何百年も生き続ける自分は、いつも置き去りにされるから。
だから忘れるんだ。

「おれは…」
小さな、声。透き通って、どこまでも、染み込んで行きそうな。
「ずっと、お前の傍に…」
涙が、止まらなかった。

一週間もしたら、寒の戻りで雪が降るかもしれない。
そうしたら、その時は、君が俺の春の雪になって。
どうか、俺を、その清らかな手で。

地に落として下さい。

 

fin.

 

back