milk chocolate


 アンジェリークは聞き覚えのある鐘の音で目を覚ました。
 ゆっくりと開かれた深緑色の瞳には、いつも目覚めた時とは違う光景を映し、自分が今いる場所は己自身の部屋ではないと把握する。
 目の前には真っ白いカーテン。微かに消毒液の匂いが残る室内。
 枕にしては硬めの物が少女の頬を支えていた。
“・・・・・・ここは・・・・・・?”
 寝起きでボンヤリと霞んでいる記憶の糸を懸命に辿りながら、大きな目を2、3度瞬かせた。
“・・・・・・寝不足で保健室にいたらゼフェルくんが突然現れて・・・・・・”
「・・・・・・」
 これまで何があったのかを全て思い出し、飛び跳ねるように上体を起こす。
「—————ゼフェルくんに数学の宿題を教えてもらってて・・・・・・途中で寝てしまったんだわ」
 なんて失礼な事を、と自分を戒めながら、先程まで枕がわりにしていた物を凝視する。
 そこで初めて紺色の学生服ズボンに包まれた自分の想い人の膝の上で寝ていたのだと知る。
 失礼な事ばかり繰り返してしまった行為を恥じ、遊び疲れて眠ってしまった子犬のようなあどけない表情をして寝息をたてている少年に謝罪の言葉を小声で述べた。
 その時、窓の隙間から小さな風がひとつ舞い込んだ。
 いつもは頬を切るような冷たい風なのだが、その日は朝からとても暖かい陽気で、吹く風も柔らかく、気持ちが良いものであった。
 そよ風は窓際のカーテンを揺らし心地よく眠るゼフェルを優しく撫で、通り過ぎた。
 サラサラと軽い音をたて、少年のプラチナブロンドの髪が踊る。
 ふわっとシャンプーの香りがアンジェリークの鼻腔をくすぐり、ふと夢を見ていた事を思い出した。
 少女の想い人であるゼフェルが、耳元で“好きだ”と囁き、瞼にキスをした夢。
 とても幸せな夢であった。
トクン・・・・・・トクン・・・・・・。
 胸がギュウっと締め付けられるような感覚に陥り、鼓動が加速する。
 ゼフェルを想うだけで身体が火照る。
“・・・・・・こんなにも・・・・・・好きになってた・・・・・・?”
 確実に容量をオーバーしてしまっている想い。
 それでも次から次へと溢れ出して止まらない。
 明日は、パートナーがいる人もいない人も、特別なイベントであるバレンタインデー。
 アンジェリークはゼフェルの寝顔をみつめ、今まで勇気が出せず伝えたくても伝えられなかった想いを言葉にする決心を、その時固めていた。




 翌日の昼休み。
 アンジェリークの親友である、レイチェルのキッチンを借りて作ったチョコレートを持ち、ゼフェルを探していた。
 渡すなら早い方が良いと思い、早めに登校をし想い人を待っていたのだが、肝心のその人が堂々と遅刻をして来た為、計画は潰れてしまった。
 それなら昼休みである今がチャンスだとひらめいたのだが・・・・・・。
 教室、食堂、運動場、体育館、保健室。
 ゼフェルが行きそうな、ありとあらゆる場所を探し回っているが、その姿はどこにもなかった。
 早退でもしたのかと、靴の存在を確かめに下駄箱まで行ったが、踵の折れ曲がっているそれは、きちんと揃えられ収まっていた。
“・・・・・・どこへ行ってしまったのかしら・・・・・・?”
 昼休みの終了を告げる鐘の音がすぐそこまで迫っていた。
 放課後にしようか、とも考えたが、真っ先に学校を後にしてしまうゼフェルを捕まえるのは至難の技である事は目に見えていた。
 だから今のうちに渡しておきたかったのだ。


 少し休憩を取ろうと、何気に窓の外を見上げた。
 雲ひとつ見当たらない青い空。ゼフェルが好きそうなすっきりとした快晴。
「・・・・・・」
 アンジェリークはハッとした。
 こんなに天気の良い日は屋上で昼寝でもしているのでは、と思いついたからだ。
 腕時計と目を合わせる。午後の授業開始まで10分足らず。
 しかし、今言っておかなければ決心が挫けてしまいそうだった為、急いで屋上へ走った。
 そこまでひと息に駆け上がるには多少無理があった為、途中で何度か足を止め息を整え、やっとの思いで屋上に辿り着いた時には、既に予鈴の鐘が鳴り終わっていた。
“お願い、いて!”
 心の中で祈りながら静かにドアノブをひねると、軽い音と共に暖かい風がアンジェリークをまるごと包み込んだ。
 広いコンクリートが続く真ん中で、ブレザーを脱ぎ両腕を枕変わりにして空を見上げ、寝転がっている人物が彼女の視線を掠めた。
 プラチナブロンドの髪の毛が光に反射して、チカチカと瞳に眩しかった。
 やっとの思いで少年を見つけたアンジェリークは、静かに深呼吸をして、彼の元へ向かう。
 一方、こちらへ向かってくる人の影を敏感に察知したゼフェルは、勢いよく上体を起こし、威嚇するような眼差しで少女を睨みつけたが、長くは続かなかった。愛しい人の存在が自分と同じ場所にあると悟ったからだ。
「・・・・・アンジェ・・・・・・リーク・・・・・・?」
 コンクリートに座ったままの状態で近づいてくるアンジェリークを見上げながら、問う。
「どうしたんだよ。オレに用か?」
 彼女は、ゼフェルのすぐ傍まで歩み寄り、彼と同じ目線になるように膝を曲げ、無言でうなずいてみせた。
 そして、少し頬を染めながら左手に持っていた真っ赤な小さい紙袋をゼフェルの前に差し出す。
「・・・・・・? ・・・・・・何だよ、コレ」
 首をかしげて不思議そうにしている反応から、今日がバレンタインであるという事を完全に忘れてしまっている様子が、窺える。
 ゼフェルがイベントごとに疎い性格なのは、彼を想い始めた当初から分かっていた事だったので、やはり、と軽く息をついた。
「あけてみて?」
 ふんわりとした彼女お得意の笑顔を浮かべ、再度その袋を差し出し受け取る事を促す。
 綿菓子のような表情を向けられ、拒否する理由も見当たらず、彼女の言うがままの行動をおこした。
 赤い紙袋から出てきた物は、ピンクのリボンで先が絞ってある、透明な袋。
 その中にひと口大くらいの丸いチョコレートが、5つ入っていた。
 手に取ったそれを凝視し、何事かとしばらく考える。
「・・・・・・それ、私の気持ち、なの」
 彼女のその一言がヒントとなり、今日が何の日で、チョコレートが何の意味を指し示すのか答えが明確になった。
 全て理解してしまったゼフェルの表情を読み、自分の想いに対する返事を聞くのが急に怖くなり、アンジェリークは堰を切ったように喋りだした。
「と、突然ごめんね。甘い物が苦手がどうかきちんと聞いた事がなくて、チョコレートにして良かったのか悪かったのかも分からなかったんだけど・・・・・・それ以外何も思い付かなくて。昨日、レイチェルのキッチンを借りて作ってみたの。味は、普通のミルクチョコレートとそんなに変わりないと思う。あ、でも、迷惑だったり、甘い物がダメだったら無理しないで、返してくれていいから、ハッキリ言っ・・・・・・」
「おめーの気持ちも、チョコレートも迷惑なんかじゃねぇよ」
 次から次へと溢れ出す彼女の言葉を遮り、ようやくゼフェルが口を開いた。
 言い方はぶっきらぼうだったが、それは照れ隠しの現われであった。
「・・・・・・本当は、オレの方が先に言おうと思ってたんだ。それを先に言っちまいやがって・・・・・・」
 そのセリフを聞き、自分の想いが片恋ではないと初めて知り、嬉しくなり、アンジェリークは言葉を失った。
 ゼフェルもその後照れてしまい、どう続けていいのか分からず、沈黙が2人の間に流れた。


 不意にチョコレートを眺めていたゼフェルが、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「・・・・・・本当は、甘い物ってかなり苦手なんだけどよ。おめーの手作りだから全部食ってやるよ」
 言い終わるや否や、リボンを解き中からチョコレートを一粒つまみ、口に運んだ。
 食べている途中、とても甘そうな表情をしていたのがアンジェリークには辛く、何度も止めたのだが、それを無視し全て食べ尽くした。
 あ〜甘かった、という捨てゼリフは、飾らない気持ちだったのだろう。
 彼女はそれさえも嬉しく涙ぐみながら、とびきりの微笑みを向けた。
「・・・・・・ありがとう。甘い物苦手なのに、無理して全部食べてくれて。その気持ちが本当に嬉しい・・・・・・」
 その姿を見たゼフェルは愛しさが増し、無意識に自分の腕の中に、か細いアンジェリークの身体を閉じ込めた。
 彼女のもらした小さな悲鳴で我に返ったが、少女を離す気はなかった。
「おめーがオレの為に作ったものなら、苦手なモンだって残さず食ってやる」
「・・・・・・うん」
「そしたら・・・・・・今してみせた笑顔を、オレだけにくれよな?」
「うん」



 午後の授業開始を知らせる鐘はとっくに鳴り終わっていたが、2人はしばらくその場で抱き合っていた。
 甘い甘いミルクチョコレートのようなアンジェリークの想いが、ゆっくりとゼフェルの中で溶けてしまうまで・・・・・・。


〜fin〜