船尾の、ちょうどみかんの木の陰になるところ。
陽の方向にもよるけれど、
大抵そこが、彼の寝場所だった。
2つばかり年下の、
いざとなれば頼りになるが普段はやたらとうるさい、
船長達の騒がしさからも遠いところ。
同じ船内にいるのだから、
声はどうしても届くけれど、
多少の喧騒は特に気にもならない。

そう・・・
気になるのは、もっと、違うこと。

かすかに風に香る、フルーツの香り。
みかんの香りではなく、もう少し、甘い。
何の香りかは、分からない。
けれどそれで、
彼は眠りから引き戻されるようになっていた。

「あら、お目覚め?」
「また、お前か・・・」
あの本を片手に、
彼の隣に座る、
黒髪の女性。
あの本とは、彼が、彼女の誕生日にプレゼントしたもので。
それ以来毎日読んでいるように思われる。
もう、当に読み終えてるだろうに。

昼食の後に、
彼女は航海士の日誌を手伝って、
船医と戯れたり、砲撃手や船長と、
他愛もないことで遊んで笑いあったり。
そして、決まった時間にここにやってくる。
眠っている彼の隣に、
そっと腰をおろして。
そっと本を開く。
そのときに風に乗る香りのせいで、
彼はたまらず目を開ける。
今までは、
みかんの強い匂いも、
あのクソコックが作るおやつの匂いすら、
全く気にならなかった彼が。

最初は眠ったフリもした。
また眠ろうともした、
それでも。
動く気配もなく、
一枚のページをじっくり読んでいる彼女に、
耐え切れなくなってしまうのだ。
最近ではそれが分かり切っているので、
下手に駆け引きもしない。

「お邪魔かしら?」
「別に、どうでもいいさ」

何をするでもない。
話を、するわけでもない。
ただ、こうして隣にいる。
理由なんざ、最初から聞かなかった。
どうでもいいこと。
彼女が何を考えて、
ここにいるのかなど。
彼自身も何故、
彼女の隣が嫌ではないのか、
むしろ、
その空間が心地よいのか、など、
どうでもいいこと。

「突然、始まるんですって」
「・・・?」
珍しく話し掛けてきた彼女に、
彼は訝しげに眉を寄せた。
彼女は指で本のある一行を指しながら、言う。
「恋」
「・・・」
必要最低限の、そのたった一言。
彼女の一言で、
動揺してしまう自分を、必死に隠す。

それを知ってか知らずか、
彼女は言葉を続けた。
「そうなのかしら」
相手のペースに飲まれるのは、
彼の思うところではない。
みかん畑の方を見やり、
軽く鼻で笑う。
「まァ、突然始まってたバカな奴がいたな」
また今日もせっせと、
みかんの手入れでもしているんだろう、
そんなことを考えながら。
無理やり、そっちに考えをシフトさせようと、
彼女の意図は考えないようにと。

「そう」
本を閉じる。
その音に反応して、
彼女のほうを振り返る。
優しい微笑。
その中にあるのに、
まるで全てを見透かされそうな瞳。
黒髪が少し風になびいて、
また、あの香りがする。
少しの間、彼の視線は奪われて。
その、ほんの少しの間に。

そのときに強く吹いた風に押されるように、
彼女の髪が彼の頬を掠めて、
彼女の唇がそっと、
彼の唇に触れる。

離れて、
乱れた髪を直し、
「ここにも、いるみたいね」
自分のことを他人事のように、言う。
彼は瞬きも出来ずに、
唇に残った感触を、
頭の中で繰り返す。
「バカ、かしら」
「・・・あァ」
「ふふっ。バカになるのも悪くないわね」
彼女はそれだけ言うと、
初代バカといわれたコックの、
「ロビンちゅわ〜ん、おやつ出来たよォ〜vvv」
の声に反応して、本を片手に立ち上がる。

後姿を見送ることも出来ず、
彼はその場で頭を抱え込む。
「・・・っち、くしょう」
不覚だった、
ああいう瞬間を、
見惚れていたというのだろう。
それでも。
やはりそれは、
不快ではなかったこと。
彼自身が、よく分かっていた。
どうでもいい、などと考えて、
甘く見ていた。
あんな突然、
始めるもんじゃないだろう、こんなことは。
そう思っていても。

分かっていた。

自分も、
やはりあのコックや航海士や、
そして彼女のように。
そうなるであろうと。